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考え方

夏期講習真っ最中ですが

昭和30年代の話です。

日本が戦争に負けてまだ間がない頃ですから、茨城県内でも餓死者が出るほどに貧しい時代で、高度経済成長の始まる前の段階ですしたから、 私の母は生きるために好きでもない男と結婚しました。

 その男はろくでもない男で、 まともに仕事もせず 職を転々とし、俺は妻も子もいらないなどと言いながら母と結婚し、 結婚当時から母を働かせ、 その金を全額奪い取るような、まあ簡単に言うとほぼヤクザみたいな男でした。

 正確に言えばどこかの組に入るほどの根性もありませんでしたから、 ヤクザではありませんでしたけれども、 まあヤクザ同然の最低の男でした。

 それでも生活するのに精一杯だった貧しい時代の話ですから、母はその状況で姉を産んで、 そしてその直後に大病にかかってしまい 働くこともできず 極貧の状態で、 それでも50円といったような金額を貯金し続け、 母は元々の生まれは そんなに貧しくなかったので、 今に豊かになってやるという執念で、 もう一人の長男である私を産み、 今で言う英才教育を始めたのです。

 母は、自分自身は中学校もまともに勉強しなかったような、 劣等感の塊みたいな状況でしたから、先生ずらして子供に教えるなどということは一切なく、

当時母が親しくしていた、近所の学校の先生の奥さんが、主婦でありながら自分の子供のためとアルバイトとして、当時流行っていた「学研の学習と科学」の配達を始めた話を聞いて、それはいいと、 私に買ってくれたり、 

あるいは「何でも百科事典に載っているからそれを見ればいいんだよ」と、貧乏なのに、ものすごく高価な百科事典を買ってくれたり、 とにかく徹底的に優しい母親でした。

 そんな母親なのに、 元々めちゃくちゃな人間だった父親は 、言いがかりをつけては酒を飲み 母を殴り続け、 しまいには包丁まで持ち出すような男でした。

私の目の前で、毎日のように母を殴り蹴るなどしていました。

現在の法律ならばドメスティックバイオレンスの典型ですから、姉や私が生まれる前に父は刑務所に服役したことでしょう。

でも、お嬢様育ちで生活力がなく実家に頼ることもできない事情があり、母は父から殴られ続けていました。

昭和の時代は学校の先生が生徒を殴る蹴る、そういう時代でしたので、母の姉は夫に殴られたことがきっかけで若くして亡くなりました。

母にはそうなってほしくない、と、私は強く思って育ちました。

 私が中学生の頃、そのろくでもない父親は、彼女ができたと家の中で 自慢気に話すようになり、 内心私は父親が憎くて殺したいぐらいに思っていました。

 でもまだ学生だった私は、母の英才教育のおかげで?勉強ができたので、 優等生の演技を続けていました。 

そんなわけですから、学校では優等生の演技を続け、学年一位を何度もとりずっと学年順位10番以内でしたので、中学校の担任からは「お前が茨城県最難関の水戸第一高等学校に合格せずに他の一体誰が受かると言うんだ」と励まされながら、通信簿もほぼオール5でしたので、当然水戸一高校に合格しました。

やれやれと 一段落ついたので 、中学時代 は ブラスバンド部だったのですが、 強くならなければならないと考えるようになっていたので 柔道部に入門しました。

元々体格が良かったので 、あっという間に当時、 昇段試験に来ていた 鉄道公安官の人を投げ飛ばして一発で黒帯を取ってしまいました。

実は小学生の頃から自転車に乗っては 1日に 片道50 km 往復100 km を走るような子供でしたので、 元々体格が良いだけではなくて 元々相当な筋肉があったのです。

高校受験が終わって、やれやれとひと段落ついた高校1年生のある日、 やはり父親は相変わらず酒を飲んでは母を殴り、そして相変わらず彼女の話をし続けていました。

それでも離婚しようとしない母親に 、なんという情けない状況かと 思っていたのですが、自分では何もすることができないということで仕方なく、私が両親を強制的に離婚させることにしました。

つまり、柔道黒帯の私が父親をボコボコに半殺しにしたのです。

そうなると当然、その家にいることができませんから、母親と私と姉は 夜逃げの状態で家から逃げ出すことになりました。

するとその翌日には父親の彼女が家に入り込み、そして間もなくその家と家を売り払って現金化した、 という話を近所の人から聞きました。

 当時はバブルの絶頂期でしたので、水城高校の裏のあたりにあった私が生まれた家は、五千万円ぐらいの値段で売ったそうです。

その後そのろくでもない父親と、そのろくでもない女は結婚して 、合法的にその5千万円を手にすることになりました。

 元々父親はろくでもない人間でしたから、当然私に対して養育費など払ってくれるはずもなく、裁判所から調停で払えと言われたにも関わらず二回か三回も払ったらそれで打ち切られ、 現在では全く考えられないことですが、母の財産分与はゼロ円でした。

現在の民法では妻の権利が拡大されていて、離婚すれば少なくとも半分の財産を主張することができるように法律が改正されていますが、当時はそんな法律はなく、 財産が欲しければ何年がかりで裁判に訴えるしかなかったのです。

 毎日のように母を殴る蹴る包丁振り回す、そういう父親ですから、そんな父親から奪い取ることなどできるわけもなく、 ひたすら縁を切りたかっただけでした。

現在では全く想像もつかない 話したでしょうけれども、 当時は妻の権利などというものは法律的に認められておらず、 ドメスティックバイオレンスという概念さえもなかったのです。

時代背景として、先生が生徒を殴る、生徒同士も殴り合う、親も子供を殴る、要するに日本中が暴力的な時代でしたから、 私の母の姉も実は 夫に殴られた結果頭の中に血の塊ができてそれが元で亡くなったのでした。

私は子供ながらにその話を聞いてしまっていたので、このまま放置すれば母親は最後は殺されると思ったのです。

 さらに私はこんな家は ぶっ壊れた方がいいと考えるようになっていました。

 だから私が、母の意見や姉の意見は考えもせずに、そもそも家そのものをぶっ壊したのです。

そのためには父親をボコボコにぶん殴るのが一番手っ取り早い方法でした。

時代がそういう時代でしたので、 裁判なんかやっても通用しないようなことは、高校生の自分にもわかっていたのです。

その後何十年もの間音信不通の状態が続いていましたが、 最近になって、そういえばまだ生きているのかなあと姉と話し合って、 そのろくでもない父親の 戸籍を調べてみたところ、なんと東日本大震災のその直後に死んでいたことがわかりました。

そこで私は、 父親が持っていたはずの常陽銀行とか労働金庫とか水戸信用金庫とか郵便局とか公証役場とか、長男ですから探偵を頼む必要もなく自分で片っ端から調べ上げました。

 もしかしたら 何かが分かるかもしれないと思ったからです 。

その結果、私の父の最期は 10万円ぐらいのわずかばかりの年金を 時々引き出してそれで掘っ立て小屋のような借家で最期を迎えたことがわかりました。

 しかもその掘っ立て小屋のような借家は、 大昔に父親が自慢していた女の実家のすぐ近くだったのです。

 つまり父の最期は、 そのろくでもない女に金だけ合法的に全部取られて、最後は放り出された状況で死んだということはが分かったわけです。

父が死んだとされる日付の翌日ぐらいには、片っ端から全額 引き出された記録が出てきましたので、おそらく東日本大震災のどさくさにまぎれてまるで事故にあったような形で再婚者かその協力者にでも殺された、もしくは見殺しにされたのでしょう。

父の最期は野垂れ死にのような状況だったのです。

一方母は、 実の私の父と離婚した後、まもなく再婚話があって 年収3000万円の男性と再婚しました。

残念ながら6年程しかその再婚生活は続けられませんでしたが、 当時私はまだ学生でしたので 養子に入れてもらうことになり、 たった6年間だけ吉村という名前ではない別の名前で生きていました。

残念ながら離婚して、同時に私も養子の離縁をすることになってしまったのですが、 現在でもその養父に対しては悪い感情は持っていません。

 母親はまだ生きていますが 、その男性に対しては、今でも感謝をしています。

結果的に、経済面だけでなく、精神的にも母と私と姉を救ってくれたわけですから。

その養父も母も今でも生きていて、最近まで私は母と同居して、パーキンソン病になってしまった母を10年以上自宅介護しながら塾の仕事を続けてきましたが、遂に母が弱ってしまったため、やむをえず老人ホームのお世話になることにしました。

私も老化してしまいましたし、母も車椅子にまっすぐ座ることさえできなくなってしまったからです。

お母さん、私を生んでくれてありがとう。

初めて、母に言いました。

なんで俺はこんな生まれなんだ?と、最近まで悩み苦しんできましたが、やっと、心から、母に「生んでくれてありがとう」を言えるようになりました。

母はパーキンソン病が進行して、半分痴呆になってしまいましたが、まだ私や姉のことが分かります。まだ、会話ができます。

ですから、できるだけこれから心穏やかな余生を過ごして欲しい。

ナンバーワンじゃないかというほど優秀なケアマネさんにお世話になり、水戸近辺ではナンバーワンじゃないかと思える老人ホームにお世話になり、やっと、母は平和な毎日が過ごせるようになったんじゃないかと、皆様に感謝で一杯です。

母が若い頃は、姉を学校の先生にしたかったようですが、滅茶苦茶な家庭に生まれ育ったせいか、姉は障害者専門の保母になりました。

そして母は、私も警官か学校の先生にしたかったようですが、教員免許はとったものの周囲の教員志望の連中のレベルの低さに辟易して、自分が受けてきた学校教育システムそのものに疑問を持っていましたので、それを正したいと、ジャーナリストを志しました。

競争率100倍の世界でしたから、残念ながら販売局員として採用される結果になってしまったので、3年で辞めてしまい、訳がわからない母は泣きましたが、

母の希望を叶えてあげようかと栃木県警察官になったのも束の間で、勤務中のひき逃げ事故被害を警察署総ぐるみで「無かったこと」にされてしまい、これもまた3年で辞表を叩きつけることになってしまったので、母は泣いてばかりいました。

結局、小さな塾の長として、ずっとやってきましたが、思えば母の希望の半分は叶えてあげることができたのかな?と思っています。

今までの人生で一番平和で心穏やかに日々を過ごすことができたら、私は長男として、本当に嬉しい。

商売が下手くそで母に豊かな生活をさせてあげられなかったのが悔やまれますが、私よりもプロの介護の専門家にお願いした方が、やっぱり母にとっても最善だと思います。

お母さん、100歳まで長生きしてください。

俺も、頑張るから。










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