ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村仁です。
釣りバカ日誌という映画がありましたね。
西田敏行さんが主役で、主人公の浜ちゃんは仕事はまともにやらないけれども趣味の釣りはほとんどプロ並みの腕前の、憎めないキャラクターの建設会社のサラリーマンという設定でした。
彼の頭の中では 趣味の釣りの方が本業だけれども、遊びながら釣っている程度では食べていけないので、食べていくために生業としてサラリーマンをやっていると言う、実際にもどこかの会社にいそうな、 マンガが原作の映画でした。
でも実際の会社では、あんなに遅刻ばかりやっていて、まともに仕事をしない社員は、 首になってしまうのがオチでしょう。
年功序列制度がまだ生きていた昭和の時代の、特にバブル期にはあちこちにいたような、会社にぶら下がっている社員のイメージですね。
平成の時代になっても、どっちが仕事でどっちが趣味だかわからないような、例えばゴルフに命をかけてますとか、あるいは趣味の山登りの方が真剣で、仕事の方は適当にやっているとか、そういう感じの人は実際にいるのかもしれませんね。
でもそういう存在というのは、あくまでも例外的な存在で、
本業の方を一生懸命やっている人の方が大多数だから、 その人たちがあげた利益の恩恵を受けて生きていられる、
というのが本当のところでしょう。
映画の中では浜ちゃんがたまにスマッシュヒットのようなすごい業績をあげるシーンがありましたけれども、
そういうのはめったにないからドラマチックなんであって、
基本的には他の人たちの働きによって生かしてもらっているという立場でしょう。
憎めない性格、憎めないキャラクターだからそういう人でもクビにならないという設定なわけですが、そういうことを最初から求めるのはやはり間違いでしょうね。
そもそも漫画にしても映画にしても、現実の世界ではめったにないことだからおもしろおかしいのであって、一般的な真面目に働いている人たちの世界を描いたのでは、当たり前すぎて面白くもおかしくもないわけで、要するに売れないわけで、漫画にも映画にもならないわけですね。
ドラマチックというのは、めったにないことだからドラマチックなわけですよね。
私は別に映画評論家でもありませんから、釣りバカ日誌という映画がいいとか悪いとか言っているつもりはありません。
じゃあ何故こんな話をしているのかと言うと、学生が部活をやっているのがなんだか似てるような気がするからです。
部活というのはもともとクラブ活動なわけで、 娯楽とか趣味に当たるわけですね。
釣りバカ日誌で言えば趣味の釣りが部活に当たるわけで、部活が忙しくて本業の勉強がなかなかできないというのは、釣りバカ日誌のハマちゃんが「釣りが忙しすぎて仕事がなかなかできない」と言っているのと同じだと思います。
ものすごくバカバカしくて、ものすごく滑稽な話なわけですよね。
例えば同じ釣りにしても、本業の漁師をやっている人は、例えば3歳から父親に船に乗せられて海に出ていたりするわけです。
趣味じゃなくて本業でやっているというのは、そういう感じだと思うのです。
ゴルフにしても同じですよね。
プロゴルファーの人たちは寝ても覚めても朝から晩までパットの練習にドライバーの練習と、一年365日のうち365日、幼い頃から10年以上練習し続けていたりするわけですね。
プロの世界というのはそういう感じだと思います。
要するに片手間でやっているということではなくて、その人の人生のほとんど全てが、魚を捕ることだったりゴルフをすることだったりするわけですよね。
例えば体調がものすごく悪くても、あるいは全く気が乗らなくても、アマチュアの人よりは高いパフォーマンスを出し続ける。
ということは、調子がいい時のパフォーマンスというよりも調子が悪い時のパフォーマンスが、プロとアマチュアの決定的な違いなんじゃないかと思います。
調子が良ければ趣味の釣り師でも良い結果を出したりする。
でも実は、それはつり場に案内してくれた漁師さんが教えてくれたので釣れただけだったりする。
でもプロの人は、それ自体が生きていることそのものなので、 文字通り命がけでやっている。
趣味でやっている人がその真似事をしようと思っても、ラッキーとかラッキーじゃないとか、まるで運に任せているみたいないい加減な結果にしかならないわけですね。
私も経験がありますけれども本当にビギナーズラックというのはあって、教えてもらった通りに何も考えないでやってみると、実はあっさり釣れてしまったりします。
ところが全く同じように一人でやろうとすると、実はそう簡単に行かなかったりするんですね。
そこから苦難の道が始まる。
趣味とは言ってもそれを本業にしている人がいるぐらいですから、奥がものすごく深かったりするんですね。
それでも練習を続けていると、熱心なアマチュアは、手抜きしているプロに勝ってしまったりすることもあるんですね。
アマチュアならば「勝って嬉しい」ですみますけれども、プロの場合は人生そのものなわけですから、「負けちゃいました」では済まないわけですね。
何が何でも勝ち続けるための、あらゆる努力を続けなければならない。
プロフェッショナルであるというのはそういうことですよね。
完璧であること、勝負に勝つこと、そういうことが当たり前であって、 一度や二度勝負に勝ったとか、一度や二度成功したとか、そういうことでは通用しないわけですね。
もしも部活でやっていることが本業であると言うならば、その部活のプロフェッショナルにならなければならないですよね。
その部活においては誰にも負けない、その部活においてはパーフェクトである。
だからスポーツなどの部活の場合は、国内トップレベルの実力がなければ、プロとしては通用しないことになるわけですね。
勝って当たり前。完璧で当たり前。
そこまで行けるのは、ほんの一握りのトップの人だけなわけですね。
ということは、部活を一生懸命やっているなどと言っても、ほぼ全員が、あくまでも本人がそう思っているという主観的なことだけであって、まあ、お母さんがわが子を褒めているのとあまり変わらないような世界なわけですね。
どれだけ頑張って本業にしたい、プロになりたいと言ったとしても、ほとんど全員、その希望が叶わないわけですね。
学校の部活でやっている場合、教育的な側面があるという言い方がありますけれども、教育的な側面で部活をやっているのであれば、それはあくまでもサブ的な役割にしかならないのであって、中心となる教育は勉強そのものでしょう。
どんな趣味でも何か学びというのはあるわけで、広い意味での勉強と狭い意味での勉強と、区別した方がいいんじゃないかと思います。
狭い意味での勉強というのは、例えば数学の点数が取れるようになるとか、国語の読解ができるようになるとか、そういうことなんじゃないでしょうか。
教育的な側面として広い意味で勉強になるというのは、例えばアルバイトとか、委員会活動だとか、ボランティアとか、普通の人間関係とか、ほとんど何でもかんでもになると思います。
というわけで、プロを目指すほんの一握りの人を除いては、「部活に教育・学習的な効果がある」というのは、ものすごく大雑把でものすごく乱暴な言い方になるんじゃないかと思います。
そういう曖昧な話が、戦後の義務教育の部活の世界ではずっと続いてきていて、 なんだか釣りバカ日誌みたいな状況になっているんじゃないのかなと思います。
学校の先生というのはそもそも、理想を語ることが仕事という部分があって、建前論だったりするんですよね。
理想論とか建前とかになると、文武両道みたいなことを言いたがると思うのですが、 本音を言ってしまえば、ほとんどの人にとっては、二兎を追う者は一兎をも得ず。になってしまうのがオチなのではないかと思います。
まあ単純に言えば、もともと限られた能力をさらに分散させているわけですから、さらにさらに弱くなってしまうというのが本当の話なのではないでしょうか。
どうしても学年一位になりたかった私は、中学時代に、自分は多分頭が悪いから、そして運動的な能力も平均以上ではないから、能力が低い私が学年一位になるとするならば、可能な限り絞り込んでその一点を叩き続ける以外には勝つ道はないと、そう考えたものでした。
本当に頭がいい人であれば、あるいは持って生まれた能力がものすごく高い人であれば、もしかしたら理想論みたいな文武両道みたいなことが可能なのかもしれませんが、運動音痴な上に頭も悪い私が自分よりも優秀な人に勝つとしたら、できるだけ狭い範囲を集中攻撃する以外にはないと考えたのです。
それが、勉強した理由でした。
言ってみれば勉強のプロになると覚悟を決めたわけですね。
現在は教えるプロをやっていますけれども、 中学生の当時は そこまでは考えていなくて、勉強する側としてのプロということだったんですね。
そうなると熱帯魚の飼育にしてもブラスバンドの部活にしても、あるいは友達と深夜星を見て天文学者になりたいなどと夢見ていたことも、全部、趣味とか娯楽だということになりました。
そもそも学生というのは職業欄に学ぶ人という風に書くわけですから、学生の本業はどう考えても勉強することそのものなわけですね。
だとしたら、 毎日毎日、本業・職業を一生懸命やるのは当たり前のことですね。
ほぼ全員にとって、部活というのはやっぱり遊びとか趣味とか娯楽に当たるわけで、 もしもそれが負担になって勉強ができないと言うのであれば、 本業の支障・障害になっているわけですから、やめるべきでしょうね。
または、部活はテキトーにやるべきでしょう。