小学校3年生の頃の私は、授業中に漫画を書いていたり席が隣の人と授業中もおしゃべりをしていたりするような子供だったんですね。
小学校4年生になってもそういう状況だったので当時の担任の先生からは目をつけられていて、授業中に他の誰かがおしゃべりをしていても私だと決めつけて叱られたり怒鳴られたりしていたんですね。
その当時の担任の言葉の中で印象に残っているのが「吉村君怒られなくなったら終わりなんだよ怒られているうちが花なんだよ」という台詞でしたが、その時ばかりはドキッとして、大人になった今でも忘れられない記憶になっています。
でも根本的に私のそういう性質は改善されることなく、学校の先生からすればとても扱いにくい生徒だったようです。
小学校5年生の時の担任からも目をつけられていて、ある時朝のホームルームの時に、担任の先生がつじつまが合わないことを言ったんですね。
そこで私は猛烈に反抗をして、あなたが言っていることは間違っていると思いますと言ってしまったんですね。
すると当時仲が良かった S 君という友達が私に加担してくれて、その担任の先生は教室の後ろに立ってなさいと命令したんですね。
親友の S 君も私と同じだということで教室の一番後ろに二人で仲良く立たされることになりました。
もう少し上の世代が頭を両手にバケツを持ってそのバケツに水を入れさせて立たされるということがあったようですが、 私の場合は手には何を持っていませんでした。
ところが1時間目が過ぎ2時間、3時間目が過ぎても一向に私が謝ろうとしていないので、給食の時間も給食を食べることなく立たされることになったんですね。
午後になってもまだ謝らないので結局下校時間まで二人で仲良く教室の一番後ろに立っていました。
さすがに朝から夕方までたちっぱなしなので両足ともものすごく痛くて、クラスメイト達は謝っちゃった方がいいよという風に助言してくれましたが、最後の最後まで謝らなかったので、他のクラスの担任の先生がいいから帰れと最後の最後には許してくれました。
多分その日のあるいは翌日の職員会議では、私がもう反抗したことは大ニュースになっていたんだと思います。
不思議なことにその日以降の小学校5年生の頃の記憶が消えているのですが、その担任の先生とは二度と会わなかったので、もしかしたらうつ病とか 何かの理由で学校に来なくなったのかもしれません。
小学校6年生になると担任の先生がまた変わりましたが、その先生はニコニコして私にものすごく好意的な先生だったんですね。
小学生のことですから、担任の先生が私に好意的なのはとても気分が良かったんですが、心の奥底では、学校の先生なんか信用ならんなというような、教師不信みたいな感覚が芽生えたんですね。
小学校5年生の反抗事件の頃に当時通っていた水戸市立吉田小学校の鼓笛隊を編成するということになって、体格が良かったのでトロンボーンを担当することになったんですね。
小学校6年生になってもその鼓笛隊は続けていましたので、中学校に入学したら、ブラスバンド部に入部しようと考えていました。
体育は苦手でしたので、運動部に入ろうという風には考えなかったんですね。
ブラスバンド部に入って一生懸命練習しようと小学生のうちから予定していました。
でも当時、小学校の中にファンクラブができるほど大人気のモテモテの男の子がいて、その子が小学校でトップだという風に誰もが思っていたんですね。
小学生のことですからマラソン大会などで走るのが速いとモテモテで、しかも背がすらっと高くて痩せていて顔も良くて、要するに成績だけではなく完全無欠のスーパースターがいたわけです。
私の方はと言うと走ればほとんどビリで、身長は1番か2番に高かったもののデブで、顔もパッとしない顔で、勉強もそこそこぐらいの状況でしたので、 私の心の中に嫉妬心があったんですね。
何一つ T 君には勝てないけれども、全て勉強ぐらいは勝ちたいものだと思うようになりました。
と同時に、小学校4年生小学校5年生小学校6年生と、学校の先生に対する不信感みたいなものが芽生えていましたので、結局のところ勉強などというのは自分で勝手にするしかないんだなと考えるようになりました。
小学校時代に親しくしていた友達は、愛読書は百科事典!みたいな人でしたので、自分で勝手に勉強をしていくということが自然なことのようにも思えました。
そんなわけで中学校に入学する半年ぐらい前の、小学校6年生の夏休みに、自分で勝手に猛然と勉強をスタートしました。
小学校の総復習を片っ端から始めたのです。
中学校に入学する直前まで自分なりに徹底的に勉強しました。
当時はインターネットなどはありませんので、情報といえば本屋さんで本を読む以外の方法はありません。
また、両親が勉強ができる人であれば両親から勉強を教えてもらうということができましたけれども、残念ながら両親とも受験勉強の経験がありませんでしたので、テストで高得点が取れるような勉強をどのようにすればいいのか、教えてくれる人がいませんでした。
6学年上の姉がいましたけれども、今でももちろん生きていますけれどもw、6学年も上なので、まるで一人っ子が二人いるような状況で、しかも姉はあまり勉強が好きではありませんでしたので、参考にすることもできませんでした。
ですから仕方がないので、自分自身を実験台にして試行錯誤を繰り返してしかなかったのです。
とはいうものの小学校の段階では、まだまだ分量的に大した分量ではありませんでしたから、とにかく闇雲に一生懸命勉強すればなんとかなる程度だったと思います。
そうやって手当たり次第にがむしゃらに勉強した結果、中学校に入学して一番最初のオリエンテーションテストでは、奇跡的に学年2位を取ってしまいました。
スーパースターの T 君は私とたまたは同点だったのです。つまり学年2位が二人いたというわけでした。
その時の学年一位の子は隣の小学校の子で、かなり教育熱心な親の子のようでした。
スーパースターの T 君の親も、職業的に高学歴で勉強ができる親だったようです。
両親とも全く学歴のない私が完全に自己流でたまたま学年2位を取ってしまったことで、もしかしたらこのまま頑張っていけば学年一位になれるのではないかと、中学校に入学してからさらにさらに勉強を続けて、本屋さんに行っては勉強のやり方に関する本を買ってきたりして自分を実験台に試してみたりして、勉強のやり方に磨きをかけていきました。
その結果学年一位もなんとか取ることができて、土浦一高が水戸1高を追い越すよりも前の時代の憧れの県内トップの水戸一高に合格することができたのです。
その当時の勉強のやり方は中学時代にはまだ確信がありませんでしたが、高校に合格したことと高校に入学して以降の勉強にも応用したことで、だんだん自信をつけて行きました。
茨城県内トップの秀才が集まる水戸1高ですので簡単にトップになることはできませんでしたが、古文だけはトップを取ることができました。
両親の離婚などで家庭的にはしっちゃかめっちゃかの高校時代でしたけれども、大学受験でもぶっちぎりのトップの成績で入学することができ、大学を卒業するまで、トップの成績はキープ出来ました。
その勉強のやり方を応用したので、競争倍率数十倍から100倍だと言われていた日本最大級のマスコミの一般公募の就職試験を勝ち抜いて、就職することができました。
母方の親戚には衆議院議員がいましたけれども、どういうわけだかその気の力を借りようという考えは私にも離婚した母親にもなかったのです。
正々堂々と一般公募の中で勝ち抜くという選択肢しかありませんでした。
そういうわけですから高校受験・大学受験・就職試験と、どんどん競争倍率と難易度が上がっていく試験の中で、私は勝って勝って勝ちまくるという経験をしたのです。
でも、小学校時代から中学高校大学に至るまで、私の心の奥底では自分が受けている学校教育は根本的に何かがおかしいのではないかと、強い不信感を持っていました。
大学では中学校と高校の教員免許を取るために、大学の講義を受けたり教育実習に行ったりしましたけれども、そうした中でもますます、自分が今まで受けてきた学校教育のシステムというのは根本的に何かが変だという考えを強くしていったのです。