ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村仁です。
理解できるとかできないとか、できているとかできていないとか、そういうことよりもまず大前提として、
勉強そのものに対してやる気がなかなか出てこないという人がいます。
そういう人は、綺麗事は抜きにして、そもそも何のために勉強をしなければならないのか理解できていないわけですね。
勉強が大好きならば好きな事なのですからどんどんやるべきですけれども、かわいそうなことに勉強好きになれなかった場合は、親がどれだけ「勉強しなさい」と叫んでみたところで、勉強しなければならないということにはなりにくいんですね。
一度勉強が嫌いになってしまった場合は、そもそも何のために勉強するのか?考えてみる必要があると思います。
中学生の場合は義務教育ですから日本国憲法と教育基本法という法律に基づいて、日本国内にオギャーと生まれた瞬間に、勉強しなければならないという権利と義務とを持つことになるわけですね。
なぜそういうことになっているのかと言うと、中3の公民で勉強しますけれども、日本国内の保護者は自分の子供を教育させなければならないという義務を負っているので、日本国憲法上の義務なので強制的に小学校と中学校に通わせなければならないわけですね。
なぜそうなっているのかと言うと、日本国民の三大義務の一つである働く義務というのがあって、15歳以下の状況ではまともな労働者として使い物にならないので、まずは読み書きそろばんとか、最低レベルの教育をしてしまおうということになっているわけですね。
日本の教育水準の高さは数百年前から世界最高レベルだったということはありますけれども、法律的に、最低でも読み書きが出来なければならないと言う義務になっているわけですね。
だからホームレスであったとしても、読み書きが出来るわけですね。
その上で、日本という国を成立させるために税金を支払わなければならないという義務になっているわけですね。
そんなわけで、日本に生まれた限りは、強制的に中学校までは勉強しなければならないということになっているから、まずは勉強しなければならないわけですね。
こんなことは小学生ぐらいの頭でも説明すれば理解できると思うのですが、小学校の先生はこういったことは説明しないのでしょうね。
中3の公民では、平等権とか自由権の勉強もしますけれども、それがどういうことなのかということが理解できれば、なぜ勉強しなければならないのかということも納得がいくはずなんですね。
どういうことかと言うと、日本国憲法によれば、日本に生まれた瞬間は、身分の違いはないと言うんですね。
現在の私たちはそんなことは当たり前だという風に思い込んでいますけれども、例えば江戸時代には、武士と農民、商人、えたひにんと言った身分制があって、武士の家に生まれた子供は頭が良くても悪くても武士になれたわけですね。
農民の家に生まれた子供は、原則として死ぬまで農民だったわけですね。
ところが現代では、そういうことが何も決まっていない状態で生まれてくるということになっている。
違った表現をすれば、小さくて真っ青な未成熟のりんごの状態で生まれて、それが成熟して50円のリンゴになるのか500円のリンゴになるのか、それは後から決まるということになっているわけですね。
別にお金が全てというわけではありませんけれども、お金で例えれば、同じ一つのリンゴでも100円で販売されていたり、高級りんごということで一個500円で売られていたり、市場に出回ることされて来なくて廃棄処分になってしまうような5円の価値もないりんごと扱われてしまったり、そういうことが、生まれた後に後天的に決まるということなわけですね。
江戸時代には、例えば庄屋の家に生まれれば一生、庄屋さんとして生きていくことができて、水呑百姓の家に生まれれば、どれだけ頑張っても水呑百姓で生きるしかなかったと言う、そんな時代があったわけですね。
ところが、現代の日本では、生まれた時にはそれは決まっていなくて、後から水呑百姓なのか庄屋・名主なのか、あるいは殿様なのか足軽なのか、そういうことが大人になるまでに決まるということになっているわけですね。
親の教育と自分自身の頑張りによって、どんな人生も生きていくことができるという自由があるということになっている。
言ってみれば、勉強するというのは、自分で自分の社会的な価値とか市場価値を上げるということなわけですね。
こういうことというのは、古代から虐げられ続けてきたユダヤ教の人々などには当たり前のこととして受け継がれてきて、財産は奪われる可能性があるけれども、学んできたことや教育されたことというのは頭の中にあるのだから、生きている限りは最大の財産として最大の価値を持つ、というわけですね。
2000年に渡ってそういうことが受け継がれてきた。だから歴史的にずっと虐げられてきた立場だったけれども、現代でもノーベル賞受賞者とか億万長者とか、世界トップレベルの人達がユダヤ教の信者だったりするわけですね。
現在の日本国憲法にはヨーロッパとアメリカの歴史と思想が織り込まれていますので、良い悪いは別として、とにかく私たちが生きているこの日本にはそういった価値観が中心になっているわけですね。
教育こそが最大の財産を作り。
そういう考え方は昔の日本にもあったわけですね。
人間だけが自分の価値を自分で上げていくことができる。
そのことに気づくと、
勉強しないということは、自分で自分の価値を下げているということになって、
勉強するということは、自分で自分の価値を上げようと頑張っているということになるわけですね。
もしかしたら、現在は100円ぐらいの価値しかないかもしれないけれども、中学校高校大学と勉強を続けていくことによって、500円、 1000円、1万円、 という風に誰の目にも明らかに、自分の価値を上げ続けていくことができる。
それがわかれば、勉強した方が良いということになりますよね。
もちろん広い意味では学校で勉強するような勉強だけが勉強というわけではありませんけれども、少なくとも学生のうちは、学生としての勉強を締め上げていくことが自分の価値を上げていくことにつながるのだということは言えますよね。
なかなか勉強する気が起こらないという人には、こういう話も授業中にしています。