塾長について

受験予備校・常勝は、10年間以上にわたって、
毎年ずっと学年1位を出していますが、
残念なことに、まだ全国1位は出していません。

 

なんとしても全国1位を出したいと考え、
全国1位を出せるシステムを構築し、
塾としての品質を究極まで高める改善を
常に続けています。

 

申し遅れましたが、このように考えている常勝の塾長・吉村仁が何者かに、興味をお持ちの方もいらっしゃると思いますので、
今更ながらですが、自己紹介をしたいと思います。

 

私は水戸市に生まれ、市立の小学校に通っていました。5年生までは走ればビリ、逆上がりもできず、テストも平均的で、授業中にマンガを描いて先生に叱られ、1日中立たされていたような、駄目な少年でした。
小学校6年生の時に担任に贔屓されたのがきっかけで、人が変わったように猛然と勉強を始め、中学校入学後最初のテストでは、たまたま学年2位をとりました。

 

私が通っていた中学校は、今でも県内最大級のマンモス校ですが、当時も1学年400人以上いたのです。

ですからまさか自分がそうなれるとは夢にも思わず、ただがむしゃらに、勉強しただけでした。

でもその結果、「たまたま」学年2位だったのです。
「やればできる」そう確信した私は、運動は全然駄目で劣等感の塊みたいな奴でしたから、自信をつけるために、勉強だけは1位になろう、と決意しました。
それから勉強のやり方を研究し、精度を上げ、1位を何度もとり続けたのです。
そして県立入試では475点をとって、自分のやり方が正しかったと証明したわけです。

 

自慢話なんか聞きたくない!・・と思いますよね?

 

私もそうです。他人の自慢なんか、誰だって聞きたくありません。
でもちょっとだけ我慢してください。

 

それまで何をやっても駄目で、劣等感の塊だった私が中学生の時に「たまたま」考え付いた、
県立入試475点をとった方法が、実は理にかなったものだと、最近になって証明されたのです。

 

高校入学後も、同じやり方をしたので、大学入試でもダントツ1位で余裕で合格し、就職試験でも50倍以上の競争率の三大新聞社入社試験に、コネも何もないのに、合格できたのです。

 

また自慢か?と思われそうですが、そうではありません。

 

その「やり方」こそ、全国1位をとるやり方そのものなのです。

 

平成14年6月にセカンドスクールとして笹野町で塾を開業してから、10年以上の間、
毎年少しずつ改善してきました。
その過程で偏差値10以上アップなどの実績を出してきたのですが、
マンツーマン、一斉授業など、あらゆることを試す中、
「これだ!」というのが見つからなかったのです。

 

出雲国・出雲大社に旅行中、「常陸の国の旧勝田市・勝田駅周辺で塾を経営しているのだから、塾名を常勝にしよう」と思い立ち、現在地に引っ越して、完全な独立の塾として再出発し、現在に至ります。

 

そして遂に、「これだ!」が見つかりました。
それこそ、自分が子供の頃にやっていたやり方を、他人にやらせる方法なのです。

 

申しましたように、私は水戸市の生まれです。
その後東京、千葉など、他県に住んでいた時期が長かったのですが、
元はといえば両親ともに、この旧勝田市には縁が深く、
水戸の吉田神社のすぐ近くで生まれた私は、
その旧勝田市の中でも、無意識に、吉田神社のはす向かいに帰ってきたのです。

 

そしてそこでは、自分が子供の頃にやっていたやり方を、他人にやらせるという仕事をすることになったのです。

 

こういうわけですので、私は確信しています。
塾としての質を更にアップし、徹底すれば、必ず全国1位を出せると。

 

目標点はいらない!
目指すは100点のみ。

 

そのために、究極の塾を目指します。

 

      • 受験予備校・常勝  塾長    吉村 仁

水戸一高に合格するには偏差値70以上の塾テストの成績が必要ですが、偏差値70以上ならば、一気に道は開けるのです

ある塾講師の逆転物語

ひたちなか市那珂市の高校受験対策


        • <塾長略歴>

 

        • 小学校時代は運動が苦手で勉強もあまりぱっとしない子だったが、中学校に入学したら勉強を頑張ろうと決めていたので小学校6年生の後半から猛然と勉強開始。

 

        • すると水戸市内の中学校の最初のテストでは1学年450人中2位をいきなり取ってしまった。

 

        • その後勉強法を改善し、どうすれば100点がとれるかの方法論に自信を深める。

 

        • 目標設定を水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)に絞り、学年1位を連発し、450人中10番以内を3年間キープ。

 

        • 通信簿も体育以外はオール5。県立入試では475点をとって余裕で合格。

 

        • その後水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)でも成績はキープし、古文などは1位も獲得。

 

        • 新聞部と柔道部に所属し黒帯も一発取得。

 

        • 家庭の経済的な事情で浪人ができなかったため、国立大学一般入試に現役で最高得点・トップ合格。

 

        • 大学入学後も全単位A評価で、4年間奨学金を複数受け、学費無料で大学を卒業。

 

        • 大学時代はアルバイトも10種類以上経験。

 

        • 自転車で日本横断・北海道一周・谷川岳富士山登山など。

 

        • ジャーナリストを志し、一般公募の日本最大規模の新聞社を受験し一発合格し入社。サラリーマン生活を送る。

 

      • その後、受験時代の方法論をライフワークとして世の中に活かすため、学習塾の仕事をすることにし、転職を決意。

受験予備校常勝について


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塾長は警官でした

 

新聞社販売局担当員

 

<塾長「裏」略歴>

小学校時代は、授業中におしゃべりばかりしていて、授業中に漫画を描いて友達に見せて喜んだりしていて、先生から毎日、叱られていました。

運動が苦手で走ればビリ。逆上がりもできず、勉強もあまりぱっとしない子でした。

5年生の担任と大喧嘩?して、バツとして見せしめに?給食抜きで1日中立たされるような、超・反抗的な問題児の子どもでした。

ところが、6年生の時の担任が、私を根性がある奴だ、と思ったのか?あるいは5年生の時の担任に手が付けられない程の猛反抗をしたのが英雄的に見えたのか?贔屓してくれたので、気を良くした私は、小学校6年生の後半から、猛然と勉強を開始しました。

小学校では鼓笛隊に入っていましたので、ただ体がでかい、という「だけ」の理由で担当になったトロンボーンを極めるために、中学校に入学したらブラスバンドに所属して、運動はダメだから、勉強を頑張ろうと決めていたのでした。

半年は、猛勉強しました。

すると、奇跡的に、水戸第四中学校の最初のテストでは1学年450人中2位をいきなり取ってしまったのです。

その時の同点2位は、バレンタインデーにはチョコを持った女の子の群衆に取り囲まれ、小学校内部にファンクラブができる程の、アイドルT君でした。

なんだ、案外、ライバルは大したことがないな、と 調子に乗った私は、もしかしたら、アイドルのT君や最初のテストで1位だった人にも勝てるんじゃないか?と思い、「勉強のやり方」に関する本を書店で片っ端から買い集め、自分を実験台に、毎日、試行錯誤を繰り返しました。

アイドルのT君への嫉妬心が、モチベーションになっていたのです。

高校受験まで、勉強法を改善し続け、どうすれば100点がとれるかの方法論に自信を深めました。

目標設定を水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)に絞り、学年1位を何度もとり、正直に言えば学年10番以内から転落したことも一度ありましたが、それ以外は、450人中10番以内を3年間キープすることができました。

通信簿も体育だけは2か3でしたが、それ以外の教科はオール5でした。

県立入試では475点をとって、水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)余裕で合格しました。

跳び上がるほど嬉しかった。

でも、アイドルのT君は、落ちたのです。

その後水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)でも成績はキープし、古文などは1位も獲得しました。

新聞部と柔道部に所属し、勉強のやり方を応用したので、黒帯も一発取得しました。

ところが!毎週のように母を殴るDVで酒乱の父を、私が一回だけ殴ったことがきっかけで、母と姉と私は夜逃げ同然に水戸の家を飛び出し、土浦市に移住することになったのです。

逃げた翌日には、父は水戸の家に18歳年下の女を連れ込み、同棲を始めました。

家庭裁判所で離婚調停が始まり、父母がそれぞれに弁護士をたてて話し合いが始まったが、父はメチャクチャなことを言い立てて、弁護士は呆れ返って調停は終了。

その結果、離婚は成立し、父は彼女と入籍しましたが、社会人になっていた姉はともかく、水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)の2年生だった私に対する養育費は、わずか数回で勝手に打ち切られ、父の暴力が怖かった母は財産を放棄したので、急速に貧乏になってしまいました。

母はパートの仕事しかできなかったから、です。

私は本気で、高校中退するしかない、と思い詰めました。

水戸一高(水戸第一高等学校・水戸第一高校)の担任の杉田先生と弁護士が、大変な思いをして入ったのだから、石にかじりついてでも大学までは出ろ、と説得してくれました。

特例として、書店でのアルバイトを認めてもらい、育英会奨学金を頂いたことで、卒業できました。

家賃も払えるかどうか?といった経済状況がずっと続いたので、浪人ができなかったため、また、親の仕送りなど全く期待できなかったので、絶対に落ちないように、国立大学一般入試を受験し、現役で最高得点・トップ合格しました。

大学入学後もほぼ全単位A評価で、4年間奨学金を頂き、さらに授業料免除・学費無料で大学を卒業しました。

大学時代はワンダーフォーゲル部に入ろうとしたら、遭難したら大変だから、という理由で母が泣いて止めたので、仕方なく谷川岳登山一回だけで退部し、サイクリング同好会に移籍しました。

自転車で日本横断・北海道一周などをやりました。

自分の小遣いを稼ぐため、書店店員・家庭教師・塾講師・ゴルフキャディ・ビル清掃・ガードマンなど、アルバイトも10種類以上経験しました。

その頃、大学3年の時に母が再婚したので、ついでに私も養子入りしました。

吉村仁という名前から、田原仁という名前に変わったのです。

大学卒業と同時に、中学校教員免許と高等学校教員免許を取得しました。

といっても、学校の先生になりたいと思ったことは一度も無く、政治家かジャーナリストしか無い、と思い詰めたものの、政治家は向かないと思い、

ジャーナリストを志して、一般公募の日本最大規模の新聞社を受験し、一発合格し入社しました。

ここでも、勉強の方法・やり方を、応用したからです。

楽しいサラリーマン生活でした。

しかし、悪代官のような新聞社販売局担当員という仕事を一生続けることは良心が咎めるのでできない、と悩み、転職しました。

親戚に何人も警官がいる、ということもあり、自分に向いているかもしれない、ということで、警察官として勤務しました。

警察学校入校後、警官になって3年後に、勤務中にひき逃げ事故に遭ったのに、犯人追及の捜査もされず労災も適用されず、事件が無かったことにされたことに激怒し、退職しました。

その間に、母は離婚したので、それにともなって、私も養子離縁し、田原仁から吉村仁に戻りました。

その後、どうしよう?と悩んでいた私に、教員免許と受験時代の経験を生かせる仕事についたら?との母のアドバイスに、それもそうだな、と思い、学習塾の会社に就職しました。

ところが、その会社から、独立しないか?と誘われたため、社員からフランチャイジーの契約に変更し、塾長になったのです。

2年後にはフランチャイズから独立し、全国行脚して進学塾・個別指導塾・受験予備校など片っ端から調査し、実践しました。

その後、自分自身の受験時代の方法論をベースとして、大企業と公務員の社会人経験も生かし、ライフワークとして世の中に活かすため、現在のメソッドを確立しました。

今も、バージョンアップ継続中です。


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