私は子供の頃、障害者だったのかもしれません。
私の場合は生まれつき障害者だったわけではありません。生まれた時は健常者でした。
授業中に一人でベラベラおしゃべりをして学校の先生から毎日叱られていたり、授業中に漫画を描いて休憩時間に友達にそれを見せては喜んでいたり、そういうごく普通の、どちらかと言うとおバカな 小学生でした。
でも、母は学歴こそないものの、知能は高いのか、本質を突いていました。一種の英才教育をしていたのです。
勉強の本質にかかわる、正しい筆記具の持ち方とか、読みやすい文字を書くこととか、分からないことがあれば辞書や百科事典で調べることとか、 学研の「学習と科学」を買ってくれたり、幼い頃から本質的な基礎教育をしてくれたのです。
その上で、小学校6年生の頃、担任に可愛がられたことがきっかけで、突然猛烈に勉強をし始めました。
両親は中卒ですから、先生面して教えるということは一切なく、学習塾に通うわけでもなく、完全に自己流で猛烈な勉強を始めました。
その結果、当時400人以上いた水戸四中の入学後最初のテストで、いきなり学年2位を取ってしまったのです。
それに気を良くして、学年一位を取りたいと、さらに猛烈な勉強を続けました。
でも完全な自己流でしたので、書店に出かけては勉強のやり方の本を買ってきて研究したり、自分を実験台にして試行錯誤を繰り返した結果、学年一位を取ることはできましたが、 近眼がものすごく進んでしまったのです。
中学校を卒業する頃には、目が悪くなりすぎて、すごい状態になっていました。
どのくらいすごい状態かと言うと、眼鏡を外して自分の片手を目の前に持ってきても、自分の指が5本あることがわからないほど、ものすごい近眼になってしまったのです。
朝目が覚めると、何か光とか色は見えますが、目を開けても何も形が見えないのです。
想像できるでしょうか?
それほど目が悪かったので、瓶底のようなものすごく分厚い眼鏡をかけても、それでもよく見えず、教室では一番前に座らせてもらっていました。
周りには高学歴の親を持つ頭の良い友人たちが並び揃っている中で、ど根性で、負けん気だけで、めちゃくちゃに猛烈な勉強をしてしまったので、 自分の手の指が5本あるかどうかがが見えないほど、目が見えなくなってしまったのです。
後になって思えば、障害者グレーゾーンの状態だったと思います。
でも残念なことに私がそんな状態になってしまっているとは、母は気付いていないようでした。
ちょっと目が悪い程度に思っていたようです。
高校大学に入っても激しい勉強を続けたので、大学を卒業する頃には、近眼だけではなくそれがもとで、ひどい肩こりにも悩まされていました。
小学生の頃から自分が受けている教育は根本的に何かがおかしいと感じていましたので、学校の先生になろうと考えるはずもなく、逆にそういう教育プログラムを変えたいと、ジャーナリストを志しました。
結果的に記者として採用されることはなく、毎日新聞社が販売局員として採用してくれましたので、まあ同じ新聞社の本社勤務だからいいかと、ジャーナリストを志したはずなのに、ちょっとだけ妥協して、全国の新聞販売店を統括する部門に就職したのです。
さすがに日本のトップだけあって、幸福な日々でしたが、若気の至りでやめてしまいました。
その頃はまだ、障害認定を受ければ障害者になったかもしれない、強烈な近眼でした。
当時はパソコン通信もない時代でしたから、情報源と言えばテレビか本しかなかったのですが、国内に一人だけものすごい技術を持った医者がいることを知りました。
ソ連に留学して、ラジアルケラトトミーという 近眼を治してしまう手術を習得した医者がいたのです。
百瀬先生という方で、群馬県桐生市で開業医をしていました。
かなり評判になっていましたので、その技術を真似したレーザー治療などというものが流行っていましたが、レーザー治療には失敗例もあり、また百瀬先生を真似した手術をして大失敗した事例もあり、裁判沙汰になっていることを知ったので、本家本元の百瀬先生にお願いする以外に方法はないと思いました。
お会いしてみるとかなり偏屈なお医者様で、誰でも手術するわけではないということでした。
本気で困っている人だけ助けてあげたいと、 お手軽を求める人を断っていたのです。
私は決死の覚悟で先生にお願いしましたので、あなたならば手術して差し上げましょうと言ってくれました。
目玉を固定するために眼底に麻酔を打って、その上で角膜を切り刻むのです。
何十本もメスを入れて、角膜をズタズタにすることによって、角膜の屈折率を変えてしまう、ものすごい手術でした。
病院で目を開けた瞬間のことが忘れられません。
恐ろしいほどにくっきりと形が見えたのです。
しばらくの間目が眩しいので、常にサングラスをかける生活をしていました。
自分の手の指が5本あるかどうか見えないほどの、強烈な障害者として認定を受けてもおかしくないほどの近眼だった私が、百瀬先生の手術によって、1.0ぐらいの視力になってしまったのです。
それから何十年も時が流れましたが、今でも裸眼で運転ができるほどの視力があります。
百瀬先生には感謝しても感謝しきれません。
その手術によって、私は美しい風景を見ることが出来る幸せを、手に入れることができました。
今でも眼科に行くと、一瞬で眼科医は見抜きます。「あなた昔やりましたね?」と。
何十年過ぎても痕跡が残っているわけです。
手術の時に眼底に麻酔を打った傷のせいか、あるいは目玉そのものは近眼の状態のままのせいか、軽い頭痛が後遺症として残ってしまいました。
でも、細い線や点、美しい風景を見ることができる幸せは、とんでもなく素晴らしいものです。
もしかすると、視力が悪すぎることで、手術を受けるのではなく、障害認定を受けることができたのかもしれません。
これ以上眼鏡で矯正しようがない、裸眼視力が0.01とかそういう状態でしたから。
でも自分が障害者だなんて考えたくもなかったのです。
いや、厳密に言えば、障害認定されるかされないかのグレーゾーンだったかもしれません。
おじさんではなく、昔ならばおじいさんと呼ばれてもおかしくない年齢になってしまいました。
だからやっと告白できるようになったのです。