特に小学生は国語が一番大事な教科だ。ひらがな、カタカナ、漢字、と文字を練習して覚えなければ、他の算数や理科社会などの勉強も満足にできなくなってしまう。国語は母国語なので、言葉の勉強は知識であり理解そのもの。知識も理解も言葉を通して行われる。
成績が良い人と成績が悪い人は使っている言葉が違う。その言葉は、家庭環境や交友関係や学校などの環境で積み重ねられていく。環境によって、使っている言葉が違う。だから環境は大事だけれども、環境のせいにするだけではなくて、自分から、言葉をどんどん覚えていくのでなければ向上しない。
なんでもかんでも誰かから教えこまれなければ覚えようともしない、という態度では、成績が悪くなることが約束されたも同然だ。
言葉を通じて、自分で調べる、学ぼうという姿勢を作る。教えられなかったことは覚えなくていい、というのではなくて、教えられなかったことは自分で調べていく。学ぶの語源は「まねぶ」つまりマネすることだ、というように、自分から積極的に新しい言葉を真似する。そして覚える。
マネすることによって新しい言葉=新しい知識を手に入れ、それを使いこなす練習をすることで「考え方」「やり方」を習得していく。
論理的な思考力は、言葉を使わなければ身につかない。言葉の組み合わせが、考えるということだ。
算数は数字と記号を使って考える教科だが、単純であるがゆえに、算数は考える訓練になる。算数は極限まで少ない数字と記号=言葉を使って考えることに特化した教科だといえる。
算数で必要になるような論理的な思考力がなければ、いわゆる国語力はつかない。国語力をつけるためには辞書を引きなが言葉を覚え、同時に国語の文章だけでなく算数で論理的な思考力をつける訓練をしなければいけない。
国語力がつかなければ自分で学べない。国語力がつかなければ勉強が嫌いになってしまう。
自分で調べる、学ぼうという姿勢は、幼稚園や小学校低学年までの親などの褒める、うれしい、から始まる。親などが褒めてくれて嬉しくて楽しい、という感情が自己重要感を高める。自己重要感が高ければ、それがモチベーション・エンジンとなって、どんどん学んでいくようになる。
東大に行くような子どもは、今も昔も幼少の頃から、先取学習をしてきた。学校で教えてもらっていないから、などという「学ばない理由」は、成績が悪い人の専売特許なのだ。
東大に行くような子どもは、勉強が苦痛ではなくて、楽しみになっている。その始まりは、国語を自分から学んでいく力だ。母国語である国語こそが、その子の学力を決めるのだ。
とすれば、できるだけ幼少の頃から、母国語である国語を自ら学んでいくように指導するべきだ。
算数は、基礎となる論理的な思考力を向上させるためにやる、むしろ補助的な教科ということになるだろう。
算数の場合はもともとパズルなので、子どもは面白がって積極的にやりやすい。だから親も算数に目を奪われがちだが、どっちが重要なのか?といえば、理科や社会の知識も含んだ国語の勉強というのは、算数の数倍も重要だ、ということになるだろう。
将来の学力を決める小学生の国語の勉強は、キッズイングリッシュの100倍の価値がある。外国語の前に母国語を学ぶ、そんなことは当たり前のはずだ。
小学部は、算数と国語を中心に、能力に応じてどんどん先取り学習してしまう。それによって、自分の学年よりも圧倒的に上の学力をつける。