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考え方

最終学歴は警察学校

ひたちなか市の学習塾・進学塾・個別指導塾 受験予備校常勝の吉村仁です。

中学生は高校受験、高校生が大学受験をするのが一般的ですよね。

なぜ高校受験や大学受験をするのかと言うと、勉強は大好きだから高校や大学に進学するなどという人はほとんどいなくて、要するに

高校卒あるいは大学卒という学歴が欲しいから、高校や大学に行くということですよね。

会社だとか公務員に就職するためには学歴というのが必要になるわけで、あるいは国家試験を受験する資格として学歴が必要になりますよね。

いつまでも学生でいることはできないので、子供のうちに大人になってからの職業を決めなければならないというルールになっているわけですが、そのための通過儀礼として、高校受験や大学受験があるというわけですね。

そういうわけで大人になると最終学歴はどこですかという話になるわけですが、私の場合は、高校1年生の2月に父親をぶん殴ってしまったことがきっかけで両親が離婚しましたので、せっかく高校受験をして入学した水戸1高を中退するしかないかなと、真剣に悩んだわけです。

私の父親は毎日のように酒を飲んでは母を殴り、包丁まで振り回すような男でしたから、まともな離婚ができたはずもなく、財産分与は0で、養育費は3回ほどで打ち切られ、現在の自動的に半分の財産が離婚した妻に与えられるという法律もなかったので、生活保護を受けるしかないかというような経済状態になってしまったんですね。

でも成績は中の上ぐらいの成績でしたから、日本育英会の奨学金をもらえるための基準をクリアしていたんですね。

当時の水戸1高の担任の先生が、国公立大学であれば授業料免除という制度もあるし、日本育英会の奨学金は大学に入ってももらうことができるので、母親の所得がほとんどなくなったとしても、大学に行くことは可能だよと説得してくれたんですね。

残念ながらそういう事情でしたから、私の時代は大学受験のために普通に浪人するというような時代でしたけれども、私個人は浪人するなどということは許されなかったわけですね。

さらにその上に、精神的に不安定になっていた母親を助けてあげる必要もあったんですね。

そういうわけで、いやいやながら、行きたくもない国立大学を受験することになってしまったわけです。

大学入試直前の合格判定では、2位以下を引き離してぶっちぎりのトップ合格の判定でした。

普通はそういう人はいなくて、格上の大学をイチカバチカ受験することが一般的だったわけですが、私にはそのようなことは許されなかったんですね。

そんなわけですから大学に行ってみると、私よりも全然成績が悪い人ばっかりが周囲にいたわけです。

そういう環境だったので、元々好きではなかった大学が、ますます嫌いになりました。

他の大学に編入学転入学することばっかり考えていました。

でも、当時の家庭の事情を考えれば、できなかったんですね。

そういう思いがありましたので、教員免許を取ることは予定されていたとしても、嫌いな 同級生たちと同じ進路を取ること自体に嫌悪感を持っていました。

さらに、自分が小学校中学校高校と学習を続けてきて、親が何と言おうがやっぱり学校の先生が嫌いだったんですね。

大学時代の成績もほとんど全部Aで、教員免許を取るために、教員になるための勉強というのも真剣にしましたけれども、真剣に勉強した結果、学校の先生になることがますます嫌になったんですね。

今でもそれなりに強いと思いますけれども、当時は日教組もものすごく強くて、その反対に官僚組織であること自体も気に入らなくて、中学校の先生は暴力全盛の時代ですから、そんなのも大嫌いで、要するに私は学校の先生としては全く向かない人だったんですね。

そういうわけですから大学3年の時に、俺はジャーナリストになると決めてしまったんですね。

しかも地方の新聞社とかではなくて、東京にある日本三大新聞社と NHK だけを受験することにしました。

大学受験の段階では妥協に妥協を重ねてしまいましたので、就職試験では何が何でも勝ってやると意気込んでいたんですね。

具体的にどことは言いませんが、東京の大学に潜入したりして、徹底的に情報収集しました。

アルバイトをいくつもやって稼いだお金を使って、とにかく歩き回って情報収集をしました。

その結果、日本三大新聞社の一つである毎日新聞社の東京本社の販売局の採用を勝ち取ることができたんですね。

本当は新聞記者になるつもりでしたが、東大でも京大でも慶応大学でも早稲田大学でも、周囲の人たちが片っ端からバタバタと不合格になっていく状況を見て、何が何でも日本三大新聞社の東京本社に入社するためには、販売局か広告局しか現実的には無理だなと判断した結果でした。

それでも、当時の大学は留年とか中退が当たり前の時代でしたから、浪人もしていないし留年もしていなかった私は、実際に入社してみると、最年少だったんですね。

要するに自分以外は浪人したり留年したり、あるいは転職したい、とにかく同期入社の全員が年上でした。

毎日新聞社そのものはとても良い会社で、楽しかった思い出しかありませんが、私にとっては入社試験そのものが本当の力試しの大学入試のつもりでしたので、現実に皇居の目の前の毎日新聞社の社員になれたことで、達成感を持ってしまったんですね。

正直を言えば、労働組合があまりに強すぎて、真面目な販売局の社員だった私は、ほとほと嫌になったということもありました。

それだけではなくて、母親が再婚すると同時に、大学を卒業する直前に養子縁組をしたことで、当時の私の名前は現在の名前と違う名前でしたけれども、母親の再婚は長くは続かず、母親の離婚と私の新聞社の退社がほとんど同時になってしまいました。

特に憧れていたということはありませんが、私の義理の兄が茨城県の警察官で、しかも出世頭だったこともあって、勧められたこともあって、警察官になるための試験を受けました。でも、母親が再婚していた時代は私は養子に入っていたために栃木県民だったものですから、茨城県ではなく、栃木県の警察になったんですね。

そういうわけで栃木県宇都宮市にある栃木県警警察学校に入校し、半年間そこで勉強しました。

学校という名前がついていますけれども、文部科学省の管轄ではなくて、一般的な学歴でいう、最終学歴には当たらないのでしょうが、その後学校と名のつくところに入ることはありませんでしたので、最後に卒業した学校は警察学校ということになります。

警察官そのものは3年ほどやって、勤務中ひき逃げ事故にあったにも関わらず、当時の警察署長や上司の人たちがその被害そのものをもみ消そうとしたので、元はといえばジャーナリストになりたかった人間ですから、こんな馬鹿馬鹿しい組織になど一生いられるか!と激怒して、辞表を叩きつけました。

仕事中の事故なのに、労災にもならず健康保険も適用されず、病院に支払った費用は全額自己負担だったのです。

そんなことはドラマの中ではよくあるのでしょうが、事実は小説よりも奇なりというやつです。

警察時代は、まあやばいことがいくつかありましたけれども、別に誰かと戦おうとは思いませんので、一生誰にも喋らないでいようと思います。

新聞社時代も警察官時代も、暴露話みたいなものはあるといえばありますけれども、色々な影響を考えると言えないし、あれから随分時が流れましたので、もはや特別な感情はなくなりました。

母方の親戚には国会議員もいますけれども、それによって良い思いをしたことは一度たりともありませんでした。

私以外の親戚たちも、同じではないかと思います。

そこまで清廉潔白な政治家というのも珍しいのではないかと思います。

ちょっと脱線しましたけれども、そんなわけで、私の最終学歴が国立大学であることが納得がいかなかったので、自分にとっての最終学歴として日本三大新聞社を受験し数十倍の倍率を突破して合格して入社したわけですが、よくよく考えると、私の本当の最終学歴は、警察学校でした、というお話でした。

まあ、変わった経歴なわけですが、普通はしていない経験をたくさんしましたので、生徒にも色々な話ができると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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