学校のシステムそのものが、19世紀から20世紀の強い国の運営のために作られたシステムで、根本的に21世紀には合っていないのかもしれません。
ちなみに江戸時代の教育は、藩校と寺子屋と私塾とがあって、
藩校は支配者階級である武士のための英才教育で、寺子屋は商人とか農民とかの主に読み書きそろばんのための教習所で、私塾は一種の思想教育で、いずれも、集団行動ができるようになるための軍事教練のような目的ではなかったようです。
日本が太平洋戦争に敗戦するまでの小学校も、現在のように勉強ができてもできなくても全員、卒業させる、などという馬鹿なことはやっていなくて、勉強を一生懸命やらない人は小学校中退・中学校中退などということが当然に行われていたようです。
日本が太平洋戦争に敗戦してアメリカに占領されている状態で作られた現在の義務教育の学校のシステムは、戦争に負けた国民に劣等感を植え付けるために行われたという側面もあるようです。
天皇を中心とする2000年余りに及ぶ日本の歴史と誇りそのものも骨抜きにしてしまうことが、占領政策の一部として行われて、それから 70年以上が過ぎたにも関わらず、未だにその路線が続いているようです。
なぜそういうことになったのかと言うと、日本の国を弱くすることを目的とする集団にとって、その方が都合が良かったということがあったからなんですね。
最近はほとんど聞かなくなりましたけれども、私が学生の頃には学校の先生のほとんどが加入する日本教職員組合(略して日教組)があって、今もあるのでしょうけれども、その影響力はものすごく強かったのです。
恐ろしいことに、学校の先生のほとんどが加入している日教組というのは日本の国を弱くすること自体を目的とする集団の一部だったんですね。
入学式や卒業式に日の丸を掲揚するとかしないとか、あるいは君が代を歌うとか歌わないとか、そういうことがたまにニュースになりますけども、なぜそういうことが起こるのかと言うと、日教組は日本の国を弱くすることを目的としていますので、そういうことは全部やめてほしいわけです。
ところが一方で、日本の国を強くしようと考えている集団もあるわけで、太平洋戦争に敗戦する前の状態に近づけようという考えもあるわけですね。
大人になった現在はそういう全体像がよくわかるわけですけれども、自分が小学生が中学生の頃には、なんだかわからないけれども違和感だけを感じたわけですね。
特に強く感じたのは、学校行事の時とか、体育の授業の時とか社会科の授業の時が多かったように思います。
その違和感の正体は、学校システムが元々持っている矛盾だったわけですね。
政治的・思想的な対立が学校内部の根本にあって、さらにその上に、私自身の人生のために用意されたものでも何でもなくて、私以外の誰かのために作られたシステムなのだと言う本質ですね。
学生時代に勉強を一生懸命やって優等生だったにも関わらず、そのあと行方不明になってしまった人とか、将来を嘱望されたエリートだったはずなのに自殺してしまった人とか、学生時代は順風満帆だったはずなのにその後不幸になってしまった人というのは、実はたくさんいるのです。
なぜそうなってしまったのか?
恐ろしいことに、実は、そういう結末になりうることは、最初から予定されていたのです。
学校というものは、あなたの人生のために作られたものではなくて、あなた以外の誰かがあなたをコントロールするために都合よく作られたものなのだ、ということです。
ということは、一生懸命やればやるほど、あなたは個人的な成功とか幸せから、遠のいていく可能性があるということです。
そこが見えると、なるほど、学生時代に不良だった人が大人になってから案外幸せそうにしていたり、あるいは金持ちになっていたり、そういうことは当たり前に起こるのだ、ということですね。
こういったことは初めて知る人もいるかもしれません。
でもそれは当たり前の話で、学校というシステムの当事者である学校の先生がこういったことを生徒にお話しするはずがないのです。
保護者にしても同じことで、まずは自分が受けてきた学校教育は当然のものだと思い込んでいますし、その学校教育というシステムに対して、誰かがあなたにその本質について教えてくれるチャンスなんて、あるはずがないのです。
でも不思議な話で、ちょっと考えてみれば分かることですが、何の目的もなく完全無料で10年近くにわたって莫大な費用をかけて学校に通わせてくれるわけがなく、
その莫大な費用を掛けるだけの効果・狙いがあるから、義務教育というシステムが成立しているわけです。