ひたちなか市の学習塾・進学塾・個別指導塾 受験予備校常勝の吉村仁です。
天才児というのは、実は、人口の1割近くもいるのだそうです。
でも、親や学校などが寄ってたかって、その才能を潰していく。
生まれながらの天才児は、正義感が異常に強くて親や学校に反発するとか、先生が困るような深く本質的な質問をするとか、興味のあることは物凄くできるが、興味のない科目は全然ダメで授業中もぼーっとしているということもあり、学校のテストでは才能が発揮されないことも多いのだとか。
ある分野では傑出した能力を発現するが、その他の分野では平均以下だ、というのです。
それで、学校になじめず問題児扱いされやすいのだそうです。
実は、アメリカはソ連にロケットの競争で負けたことがきっかけで、国策として天才児発掘と天才児教育に力を入れているのだそうです。
その研究で、天才児がたくさん発見されているので、共通項が分かってきたのだとか。
貧しい家庭にも天才児は生まれ、障害児の中にも天才児はいるのだそうです。
天才と気違いは紙一重という言葉もありますが、天才というのは「やばい人」なのでしょう。でも、そのヤバい人の才能を伸ばすことが、国策としては必要なのだ、ということでしょうか。
日本の国力を上げるためには、必要なのでしょう。
でも、私は、天才よりも秀才を育成したいと思っています。
秀才というのは、水戸一高の校訓・校是のように、「努力の人」のことだと思います。
意志の力や努力によって、優秀な能力を身に着けた人。だから、育成の喜びがあるな、と思うのです。
それに、頭は悪いけど努力によって秀才になった、ということは、誰にでも可能性・ポテンシャルがあり、それを引き出して伸ばしてあげる、という希望にもつながります。
神様からの贈り物であるギフテッド=天才児というのは、国の宝ではあるのでしょう。ならば国家戦略的に、育成していくべきでしょう。
でも、私が檀家になっている天台宗の開祖・伝教大師最澄が「一隅を照らす人となれ」と教えたように、一人ひとりがその持ち分を最大限に発揮することをしていけば、それが国力の増大になり、また個人的にも幸福につながるのではないか?とも思うのです。
まさにそれが努力の人=秀才の大量生産であり、水戸一高の校訓・校是の哲学だと思います。
天才じゃないけど、勉強も仕事もできる人を育成したい。
できれば、小学生から。