ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村です。
都内の有名私立に通っている小学生・中学生・高校生は、ほぼ全員か?というほどの比率で、塾に通っているのだそうだ。
学校は交友関係を楽しむ所で、自分のための勉強は塾でやるものだ、というのが常識になっているらしい。
そして、自宅はくつろぎの場所なんだろうか。
もちろん、全員がそうだというわけではないが、ゆとり教育以降、そういうことになってしまっているらしい。
基本は総合的な塾で、たとえば国語だけ別の塾とか、ダブルトリプルスクールも珍しくないのだという。
だから、中学受験は中学受験専門塾で、高校受験は高校受験専門塾で、大学受験は大学受験専門塾で、就職試験は就職試験専門塾で、なんでもかんでも塾頼みになっているというのだ。
恋愛は恋愛塾で、バーベキューはバーベキュー塾で、という具合に、塾塾塾になっているという。
コンビニ感覚というのだろうか。
なんでも気軽に金で買う、というのは、程度の問題だと思う。
問題は、主体がどこにあるのか?だと思う。
主体が自分にあるのか、相手にあるのか。
主体が自分になければ、それは賢い行動ではなく、愚かな行動になってしまうと思う。
囚われ人に、自分から喜んでなっているわけだ。
金で賢く「利用」しているつもりで、実は、あべこべに誰かに「利用」されてしまっている。
主体性を放棄すると、ずっとそれを継続する。
奴隷になってしまうわけだ。
憲法上、奴隷にされてしまうことは無いわけだが、自分から奴隷的な状況に進んでなろうとする。
それは、ちょっと考えなければならないことだと思う。
自分で探す、自分で答えを導き出す、自分でまとめる、自分で試行錯誤する、自分で痛い目に遭う、そういう、無駄みたいに見えることをどれだけやるか?で、逞しさは決まってくると思う。
無駄を肯定する。
回り道を是とする。
失敗を成功の糧とする。
痛い目に遭って立ち上がる。
そういうことは、自分が主体でなければできないだろう。
要は、程度の問題だ。
主体は自分にあって、コーチを雇うのが、ベターな選択だろう。
だから、いわゆるひ弱な塾を、否定する。
逞しくなってほしい。