ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村です。
日本全国で、来年度から本格的に、新しい教育制度が始まりますね。
今は完全否定されている、昔々の「ゆとり教育」。
ゆとり教育が導入された当時、もう20年ほど前になりますが、どんな教科書になったのかな?と思い、「ゆとり教育」の教科書を読んでいて、びっくりしたものです。
まるで絵本のような、文字がほとんど無い教科書の見開きに、
「さあ、考えてみよう」
「みんなで話し合ってみよう」
と、書かれていたのです。
・・・なんじゃこりゃ?
小学校の教科書とはいえ、いきなり「考えてみよう」は、無いだろう?
ああ、これが、3割削減のゆとり教育の中身か。
・・・と、納得したと同時に、とんでもない時代が始まるな、と、教育関係の仕事をしている立場から、覚悟を新たにしたものでした。
詰込み教育が良くない?という議論はずっとあったので、「ゆとり」が導入されたわけですが、子どもに「ゆとり」って、こういうわけなんだな、というわけでした。
ふと頭に浮かんだのは、カレーライスでした。
どうしてか?というと、
いきなり「さあ、考えてみよう」というのは、教育でもなんでも無くて、たとえば子どもに鍋をポンと渡して
「さあ、カレーライスを作ってみよう」
と言い放つようなものだな、ということなのです。
もし、本当にカレーライスを作るとしたら、肉は豚肉か牛肉か鶏肉か、ひき肉かバラ肉かもも肉か、玉ねぎは必要か、ジャガイモは入れるか、切り方はどうか、ルーはどれにするか、手順はどうか、火加減はどうか、・・・などなど、色々準備が必要なはずなのです。
でも、小学生は知識も経験も少ないので、いきなり鍋を渡されても、どうすればいいのか見当もつかないはずです。
まず、材料は何か、食べる人は何人か、など、条件とか目的を決めたり準備したり確認したりしなければ、料理できないでしょう。
「考える」というのは、その前提や、プロセスや、ゴールが無ければ、「考える」にならないわけで、そうでなければ、ただ悩んでいるだけに終わるでしょう。
玉ねぎを準備する。切り方を学んで練習する。炒めてから煮るのか、それともいきなり煮るのか。肉が先か後かそれとも同時か、あるいは入れないか。ルーとか香辛料は?
準備する。勉強でいえば、学んで覚えて練習する。
材料を揃える。勉強でいえば、漢字練習とか、読解とか算数で論理力を作るとか。
調理する=考える前に、何を何のためにどのように作るのか=考える目的やゴールや前提を決めて準備する、ことの方が、ずっと大事ですよね。
頭の中が空っぽなのに、「考える」は、成り立たないでしょう。
それは単に、悩んでいるだけ、ですね。
小学生も中学生も、まだ材料がそろっていない段階です。
まずは、材料を揃えるのが先ですね。
玉ねぎや肉を、頭の中に作る。
レシピを覚える。
で、料理なわけでしょう。
インド風のしゃばしゃばなカレーもあれば、英国風のもあるし、日本風もある。
材料もレシピも多い程、色々な料理ができるわけですね。
知識もロジックも多い程、色々な「考える」もできる。
まあ、既に政府が「ゆとり教育は完全に終わりました」と宣言しても、その空気はずっと亡霊のように残って、子どもたちは年々勉強しなくなっているようにも見えます。
この10年ほどで加速度的に情報が増え続けていて、今のこどもが大人になる頃には人工知能が役割を増していくとはいえ、人工知能を使いこなすはずの人間は、最低限の知識やロジックを頭の中に入れて情報処理ができなければならない必要度は、加速度的に増していくでしょう。
そうでなければ、人工知能に「使われてしまう」。
いや、人工知能の後ろ側にいる人間に使われる一方になる、だけかもしれません。
無思考のうちに。
水戸一高のOBで日本有数の論客である立花隆先生は、まあまあの本が書きたければ本を100冊読む必要があるが、本当に良い本が書きたいならば本を1000冊読まなければ書けない、とおっしゃいましたが、「考える」というのは、それほどの知識とロジックがなければうまくできない、ということだと思います。
空っぽの鍋をポンと与えられても、何もできないわけで。
義務教育の段階などというのは、10年かかっても本を100冊も読めなかったりするわけで、そんな程度ではお話にならない、ということをまずは知るべきですね。
「考える」ことができるようになるためにも、まずは、最低100冊程度の知識とロジックを頭の中にインプットしましょう。
・・・ということでしょうね。
「ゆとり」は、そのずっと後でいいんじゃないですか?
たとえば、本を1000冊読んだ後で。
というわけで、今までは移行期間・激変緩和措置期間でしたが、来年度から、新しい学習指導要領による教育プログラムが本格始動しますね。
茨城県でも県立中学10校の新設、大学入試新テストの開始、と、新しい学校教育プログラムを文部科学省が推進していこうとしています。
一言でいえば、格差の容認というわけですが、どうなることやら。