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超難関大への現役合格に強い高校トップ100に入りたい

ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村です。

 

2018年の記事に東京大学京都大学などのいわゆる難関国公立大学の現役合格率をランキングした記事がありましたね。

 

超難関大への現役合格に強い高校トップ100

 

https://toyokeizai.net/articles/-/226215?page=4

 

https://toyokeizai.net/articles/-/226215?page=5

 

この記事で衝撃的だったのが、群馬県の前橋高校とか栃木県の宇都宮高校はトップ100に入っているにもかかわらず、

茨城県内の水戸一高とか土浦一高がそのランキングに入っていない

という事実でした。

 

私が通っていた当時からそうでしたけれども、水戸一高の場合は自由な校風とか私服で通学するなどと言ったように、あまり締め付けがない学校ということもあって、浪人生が多いということがありました。

 

最近はさすがに浪人は減って現役の合格者が増えつつあると思いますけれども、それでも妥協したくないがゆえに、現役合格が当たり前になった最近でも、未だに浪人する生徒が多いということが、この記事からも分かります。

 

一昔前であれば、つくばエクスプレスが開業する前でつくば市内のエリートの子弟が交通の便が悪かったがために土浦一高に行かざるを得なかったという事情で、土浦一高から東大を志願する人が結構いたということがありましたが、つくばエクスプレスが開業してからは元々茨城の地元の人ではないがために、石を投げれば博士に当たると言われたようなつくば市内の研究機関の研究者の子供などはどうしても東京の方に向くようになったということが、土浦一高をランキングから転落させた原因と思われます。

 

一方、水戸一高の方は、昔からあまり東京大学・東大とこだわっていないということもあり、 昔から京都大学などの人気も高く、また難関国公立大学で言うと、東京教育大学が前身となる新設大学である筑波大学よりも旧帝大の東北大学などに対する気持ちの方が強いということもあって、どちらかと言うともともとちょっと屈折したところがありました。

 

そういう気風というのは、遡れば何百年という単位のことに遡ると思います。

 

どういうことかと言うと、元々常陸太田市には鎌倉時代から佐竹氏と言う、源氏の正統派の流れをくむ殿様がいて、戦国時代の末期には水戸地方も支配下に入れていたわけですが、関ヶ原の戦いの時に名門であるがゆえに徳川方につかなかったという理由で、側近とともに秋田県に移封されたという歴史があるわけです。

 

要するにそれまでの数百年間は水戸市はどちらかと言うと田舎で、常陸太田市の方が都会だったということですね。常陸太田市を都心として、佐竹の殿様の勢力は福島県から茨城県中央部に至るまで及んでいたようです。

 

ところがその佐竹の殿様が秋田県に移されたので、 後からやってきた徳川家に対して領民たちは反抗したようなのです。その当時の伝説に大子町の生瀬地区の農民たちが反抗したということで、見せしめに、徳川の軍隊に皆殺しにあったというものまであって、無人地帯になってしまった生瀬地区に栃木県などから農民を移住させたというのですね。そういうことまであったので、徳川幕府から見れば、当時の茨城県北部は危険地帯だということで、徳川家が直接支配することになったのでしょう。

 

東北地方に対して睨みを効かせるということもあったのでしょうね。水戸黄門は水戸光圀、徳川幕府の副将軍、官位は中納言、ということでテレビドラマにもなっていますけれども、そういう物語の発祥は、徳川幕府から見れば危険地帯だった茨城県北部を支配するために徳川家が乗り込んできて、言ってみれば諜報機関としての西山荘を常陸太田に構えて、その上で徳川幕府が正統であることを証明するために大日本史の編纂を始めた、そういうことがあったわけですね。

 

日本書紀や古事記という日本の歴史を記述した物は大昔からありましたけれども、それは天皇が天皇であることを正当化するために編纂されたものだったわけですよね。その後貴族の時代とか武士の時代がやってきて、天皇が支配者だかなんだか分からなくなって、その究極は戦国時代の大混乱の時代だった。やっとそれを徳川家康が統一に成功したわけなので、その統一がいかに正当なものであるか証明する事業を、徳川御三家の中でちょっと特殊な地位にあった水戸徳川家が、始めたというわけですね。

 

水戸地区を押さえ込むという事情もあったのでしょう。

 

そういうスタートの経緯から、幕末に至るまで大日本史の編纂を継続したわけですけれども、その結果水戸学という学問が生まれて、その究極が幕末の尊王攘夷運動に繋がっていったわけですね。

 

薩摩長州土佐などの幕末の尊王攘夷運動の思想的な支柱になったのは、徳川光圀が始めた水戸学だったわけですね。それなのにそれがなぜ輝かしい栄光として言われてこなかったのかと言うと、徳川御三家であるにも関わらず幕府打倒のような流れに繋がっていったと言う屈折した歴史のためだと思います。

 

桜田門外の変で井伊大老を暗殺したと言ったような、現在でいうテロリズムみたいなことをやったことも、屈折した歴史になっていますね。徳川御三家の正統のはずなのに、水戸徳川の殿様が徳川幕府からひどい目に遭わされる。

 

そういう混乱の中で、当時の水戸藩自体も分裂して、尊王攘夷を主張する天狗党とそれに反対する諸生党が、茨城県内で殺し合いまでやったというのですね。その当時の論客たちが殺されたりして、いなくなってしまった。当時の侍たちの混乱を、当時の庶民たちは、おそらくこの後100年ぐらいは立ち直れないのではないか、 と評したというのですね。

 

http://www.koen.pref.ibaraki.jp/park/kodokan01.html

 

だから当時の人口からいえば、江戸時代には都会であった水戸が、明治以降大幅に発展が遅れたというのですね。今だに人口26万人程度ですから、全国の県庁所在地を比較すると、幕末当時の混乱が相当大きく影響して、100年以上、水戸市の発展を遅らせたということのようなのです。

 

そういうわけで、徳川御三家でありながら薩長同盟に強い影響を及ぼしたと言ったような、 つまり徳川幕府側でもなければ明治新政府側でもない、 宙ぶらりんな状況になってしまったわけですね。

 

そういうわけでさかのぼって考えると、佐竹の殿様の時代から徳川の時代にかけて、あるいは明治新政府になってからも、とにかく茨城県北部というのは精神的にとても屈折した下地ができてしまったわけですね。

 

本当は誇り高いはずなのに、 そのプライドの高さが空回りしてしまうような、 そういう歴史的な背景があるのだと思います。

 

私は生まれた時から高校1年生まで、同心町という、旧水戸城下の端っこの地区に住んでいましたので、そういう屈折した部分を肌で感じていました。

 

私の父は茨城県北部の出身で、私の母は茨城県南部の出身なので、その子である私は茨城県北部の精神性と茨城県南部の精神性を両方理解できるようになり、昭和時代の水戸のこともよく知るようになったのです。

 

その後、両親の離婚によって土浦市に移り住み、さらに母親の再婚によって栃木県民になった時代もあり、また毎日新聞の時代には東京都内と千葉県内にも住んでいましたので、県外から水戸地区のことを眺めることもできるようになりました。

 

ご縁によってひたちなか市で塾を開業することになったとき、父親も母親も若い頃に勝田市内で仕事をしていたというご縁もあって、子供たちの進学先は水戸市内のことが多いこともあって、時を経て、なんだか水戸市については、浦島太郎のような気分になったことを思い出します。

 

思い切り脱線してしまいましたけれども、

 

水戸地区そのものに、あるいは茨城県北部そのものに、保守的な気風と革新的な気風とが共存しているような、分裂したような精神性があると思います。

 

地理的には常陸国風土記にさかのぼるまでもなく、茨城県というのは雪もほとんど降らないし災害も少ないし、黒潮と親潮がぶつかるので漁場としても豊かだし、南方系の作物と北方系の作物とが両方採れるような農業的に豊かな土地だし、第一次産業的に見れば茨城県というのはものすごく恵まれた豊かな土地なのです。

 

高い山も少ないので、茨城県全域にパラパラと家とか農地が広がっているような、どこが中心だかわからないような、茨城県全域が田舎と言っていいような、そういう土地なのですね。だからなのか、のほほんとしていると言うか、頑張りが足りないと言うか、のんびりしていると言うか、そういうことがあって観光にもあまり力を入れないし、全国的に見ればのんきな感じなんだと思います。

 

地理的にはなんと言うか食うに困らない土地と言うか、農業やってるのが一番なんじゃないかというような土地と言うか、そういうことがあると思います。

 

基本的にはそういうわけですが、同じ北関東の中でも茨城県だけが日本全国トップ100位以内に入れないというのは、やっぱり悔しい。

 

土浦一高の栄光の時代は筑波研究学園都市の研究者たちの力だった、あるいは東京に通勤するサラリーマンのベッドタウンとしての常磐線沿線の向上心や向学心に溢れた外部からの人たちの影響が大きかった、そういった事情が、つくばエクスプレスの開業や茨城県南部のベッドタウンから利根川を越えて千葉県や東京都に人が移住していく流れによって、なくなってしまった。

 

1985年から20年間ぐらいの土浦一高の栄光の時代は、水戸一高の出身である私にとっては苦々しく感じるところもありましたけれども、それが終わってしまった結果、

水戸一高が日本全国トップ100位以内に入れないという現実が、際立ってしまった。

 

水戸市には茨城高校と言う水戸藩の流れを汲むような名門校もありますけれども、その茨城高校も水戸一高にさえ及ばない。

 

私も一時期住んでいましたけれども、おとなりの栃木県の県庁所在地である宇都宮市と比べると、やっぱり基本的には人口の規模によるのかなというふうにも思います。

 

日本全国的に言えば東京や大阪などの大都市圏を除いて、地方では人口の減少が激しくなっていると言いますけれども、茨城県でも田舎に行くほどその傾向はあるようで、人口が増加しているのは水戸市やひたちなか市、あるいはつくばエクスプレス沿線、その程度なのではないかと思います。

 

地域の発展のことを考えると、水戸市とひたちなか市は隣接しているので、一緒になってしまった方がいいんじゃないでしょうか。あるいは教室がある那珂市も含めて、水戸市とひたちなか市と茨城町、さらに大洗町など、大合併した方がいいんじゃないかと思います。少子化で人口が減っていくことは目に見えているわけですからね。

 

私がサラリーマン時代、入社した毎日新聞社が編集局ではなくて販売局になってしまった時点で、私はジャーナリストを含め政治家になるような道も諦めてしまったわけですが、一介の市民の私が思うのは、水戸地区のレベルアップのためには、江戸時代の水戸藩の時代に戻した方がいいのかもしれないですね。

 

水戸市ではなく、水戸地区として、レベルアップをはかっていく。

 

長年、小さな塾の塾長をやってきましたけれども、 教室を構えているひたちなか市のことを真剣に考えると、結局は水戸市の文化圏ですから、 水戸地区の発展のことを考えてしまいます。

 

私の影響力なんかとても小さなものですけれども、私が入団している天台宗の開祖・伝教大師最澄の教えの通り、一隅を照らす。そういう志で、 水戸地区のレベルアップのために貢献したいと願っています。

 

高校受験で言えば、水戸一高に後輩たちを送り込む。あるいはそれに準じた緑岡高校や水戸二高に子供たちを送り込む。

 

大学受験で言えば、できれば東京大学に後輩たちを送り込む。あるいはそれに準じた有名国公立大学に子供達を進学させる。

 

そのために小学生の段階から、公立中学だろうが私立中学だろうが、中学高校とトップをキープできるような学力を持った小学生を育成する。

 

明治維新以降、薩摩長州明治政府以降のことばかりが喧伝されますけれども、平成の時代も終わりを告げますので、これからの時代はもっともっと先のことを見据えた方針が必要なのではないかと思います。

 

インターネットや GPS やナビやスマホなど、一見、国境を破壊するような世界的な動きがありますけれども、その反動としてアメリカやブラジルなど、ナショナリズムのような動きもあるようです。

 

毎日新聞の社員の頃に自分には政治は向かないと悟りましたけれども、政治的なリーダーになることは私にはできませんが、その代わりに、将来のリーダーになるような子供の教育に貢献したいと思っています。

 

水戸地区のレベルアップに貢献したい。

 

草の根の、塾長として。

 

 

 

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