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サムライ昇龍 考え方

幸せになるための受験勉強

ひたちなか市の学習塾・個別指導塾・進学塾 受験予備校常勝の塾長の吉村です。

 

まともな親なら誰でも、子供に勉強しろ勉強しろと言う。

でもなぜ、勉強しろと子供にうるさく言うのか。

親自身が子供の頃にそのまた親に言われたので、あまり深く考えずに、そういうもんだと 繰り返しているだけではないか。

そもそもなぜ 子供は勉強しなければならないのか 深く考えたことがあるだろうか。

私は中学高校大学とずっと優等生だった。

でもずっと疑問に思っていた。

親や学校の先生が言うように 真面目に勉強を頑張ってみたけれど 不幸になってしまった人なんて山ほどいるのではないかと。

実際、親が言うように一生懸命勉強したけれど、大学院時代に自殺してしまった人とか、行方不明みたいになってしまった人とか、幸福な人生にならないで終わってしまった人が 実在するのだ。

そこまで極端ではなくても、受験勉強を一生懸命頑張った結果、失うものの方が多くて、不幸になってしまった人というのも 世の中にはたくさんいるように思う。

そうなると、そもそも何のために、誰のために、貴重な青春時代を犠牲にして 勉強したんだろうか?という根本的な疑問が 沸き起こってくる。

不幸になってしまうぐらいなら、勉強なんか、そもそもする必要がなかったんじゃないのか。

二度と来ない貴重な子供時代、青春時代を、遊び切って楽しみ切った方が良かったんじゃないのか。

再びあなたに質問したい。

そもそもなぜ、あなたの子供は、勉強しなければならないのか 深く考えたことがあるだろうか。

読み書きそろばんができなければ社会生活が営めないということであれば そんな程度の教育は小学校卒業程度で十分だ。

中学校までが義務教育ということになっているけれども、中学校で勉強している内容は、社会人になってから役に立たないことの方が多い。

こんな勉強しなくても、生きていくのに困らないということが、子供は本能でわかるので、 必要を感じないのだから勉強しなくてもいいんじゃないかと考えるのは自然なことだ。

 

だから意味不明な勉強から逃避して不良みたいになってしまった人の中には、社会人になってから 成功してしまう人が出てくるという事実は、むしろ自然なことだ。

学校や塾などの教育関係の仕事についていない限りは、中学時代に勉強した内容のほとんどを忘れていることが普通だろう。

やっぱり必要がない知識を詰め込んだだけだったのだ。

そんな必要がない知識のために、青春の貴重な時間と労力を吸い取られたことに意味があるとするならば、それは何だろうか。

それはある目的を達成するための手段、方便に過ぎなかったのだということだ。

ではその目的とは何だろうか。

それは例えば高卒 あるいは大卒 の切符を手に入れることだ。

すごろくのように、中学を卒業すれば高校、高校を卒業すれば大学、大学を卒業すれば就職、と駒を進めていく。

勉強は そのための手段に過ぎないのだということだ。

中学校以降の勉強内容 そのもの が役に立つのは一握りの人でしかなくて、 多くの人にとっては、 学歴を獲得する という 目的を達成し駒を順に進めていくための手段、 勉強内容そのものは 消耗品みたいなものだったりする。 

勉強という言葉自体は色々な場面に使われるので、学校教育で行われている勉強も、いかにも人生に役に立ちそうな 印象があるのだが、 実はそれは少ないというのが本当だと思う。

実は、勉強以外の様々な経験、例えば友人関係とか、どこかに出かけたとか 、大人からの影響、 つまり勉強以外のことの方がその後の人生を 大きく変えたりする。

だとしたら、 親が子供にしてあげるべき教育とは一体何だろうか。

学校でやっているような勉強を、勉強しろ勉強しろと言うよりも、もっと大事なことは何だろうか。

子供が不幸になることを望む親が、いるだろうか。

親である限り、自分の子供に愛情を持っているのならば、子供が幸福になってほしい と望むはずだ。

私が受験勉強を一生懸命していた時、自分がしている勉強に対する疑問が 解消できなかった。

自分の限界に近いところまで受験勉強を激しくやったので、 相当の痛みや苦しみを経験した。

真剣に本気で受験勉強をしたことがある人は、 自分の脳を痛めつけるような痛みや苦しみが分かると思う。

必要がないであろう知識を無理やりに 記憶させるということは、脳に傷をつけるに等しいと感じていた。

そういう日々の勉強の中で、頭に浮かんだ言葉、イメージは、

心の平安

幸福

という言葉だった。

勉強を通じて達成感は味わったものの、達成感と幸福感とは全く別のものだと感じていたのだ。

達成感というのは、目標設定してその目標達成のために必要な量と質とが 蓄積されれば達成され、 味わえる 可能性が高い。

登山に似ている。

頂上に立つと決めて、頂上に到達するまで歩き続ける ことで、途中で諦めなければ頂上に立って達成感を味わうことができる。

受験勉強も それに似ていた。

でも、幸福感というのは、それとは全く違う。

努力するとかしないとか、手段がどうとか、関係がないのだ。

幸福感を感じるには、二つの方法しかない。

一つは諦めること。
もう一つは突き抜けること。

諦めるというのはゼロになること。
突き抜けるというのは100%になること。

0と100の中間の状態にいる限り、幸福感を感じることはできない。

ゼロになるとはプラスもマイナスもないということだ。

無。

幸せだなぁ。以上。

理由も因果関係も理屈もないということだ。

凡人の私たちにはきっかけがなければ そういう幸福は感じられないけれども、お釈迦様の教えは、 一分一秒の日常こそが 桜の花が満開で綺麗な時と 同じだというわけだ。

忘我とか無我という言葉があるが、 私たちのような凡人でも、余計な思考がない時には、幸福を感じることができる。

捨て去ること。

諦め切ること。

無我、没頭、忘我。余計な思考がないこと。

目標みたいなものがあってもなくても、 達成されてもされなくても、全く関係がないということ。

テストの結果が0点でも幸せだということだ。

でも煩悩だらけの凡人の私たちは 、そんなふうに思うことが到底できない。

だからもう一つの方法としては、 突き抜けるまでやりきる。 つまり100%とか200%、300%の状態になってしまうまでやり切ってしまう。

そうすれば 幸福感が味わえる。

目標達成するとかそういう 目先のこと の 向こう側の 遥かに上の状況になってしまったからだ。

もはや目標を達成したとかしないとかそんなことがどうでもよくなってしまったからだ。

そこまでやり切ってやり抜いてしまった場合は、結果そのものも他人のことも どうでもよくなってしまう。

突き抜けてしまった時は、その突き抜けてしまうプロセスそのものもその後の状況も、幸福感に包まれるだろう。

しかし現実的にそこまで勉強を突き抜けるような人は、水戸1高にトップ合格するような人だけだろう。

こんなことは、学校教育プログラムでは教えないことだ。

というよりもむしろ、

学校教育プログラムそのものは、 個人的な幸福感から遠のくためのプログラムだとさえ言えると思う。

勉強を頑張っても、勉強を頑張らなくても、どっちにしても 不幸感を味わうシステム。

なぜかと言うと、 日本社会のために作られたプログラムやシステムなのであって、あなた個人の 幸せ のために作られたプログラムやシステムではないからだ。

むしろあなた個人の幸せという点からすれば、幸福感から遠のいていくためのプログラムやシステムだとさえ言えるかもしれない。

あなたが幸福になるための幸福感を味わうための プログラムとかシステムがあるとすれば、それを学校教育の中に期待することはできない。

塾や予備校も学校を補完するために作られたので、 期待することはできない。

受験予備校常勝は、目先の成績アップや志望校に合格させるという目標達成は当たり前で、それ以上に、あなたとあなたの子供が幸福になるためのプログラムとシステムを構築してきた。

受験勉強なんか所詮、 子供を社会的に少しでも有利な立場にさせてあげるための 手段でしかないのだから、そんなものはとっとと達成する。

だからといって、その勉強の途中やその結果で、子供が不幸になってしまったのでは、 親の願いとは反対の結果になってしまったことになる。

賢い保護者であるあなたとあなたの子供が、 幸福になるための受験勉強でなければ意味がない。

合格という成功がその後の人生の大失敗の原因になってしまったのでは、全く馬鹿みたいなナンセンスな話だ。

 

 

 

 

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